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52話 蝕む者たち

last update Last Updated: 2025-06-21 14:30:44

 嫁いだその晩、シュネはイグナーツによって踏みにじられた。

 背後からのしかかる重み。体を貫く熱と痛み。髪を引かれ、首を絞められ、どれほど悲鳴を上げても、助けを呼んでも──声は虚しく空間に吸い込まれるだけで、誰にも届かなかった。

「……いや、やめて、もう許して、お願いです」

 どんな懇願も、すべては無意味だった。

 彼の欲が満たされた時には、シュネの涙は涸れ、声さえ出なくなっていた。そんな時与えられたのは、初めての口付けで。屈辱に震えながらも、シュネは僅かな反抗として彼の舌を噛んだ。

 ──それが、本当の悪夢の始まりだった。

 激昂したイグナーツは、彼女を地下監獄へ幽閉し、そこで待っていたのは暴力と、言葉にするのもはばかられる屈辱だった。

 希望も尊厳も失われ、彼女は思った。いっそ、死んでしまいたいと。

 けれど──この男の手にかかって死ぬのだけは、我慢ならなかった。

 ならば、自分で終わらせたい。

 どうせなら、美しい場所で、最後を迎えたい。そう考えた時思い浮かんだのが、レルヒェ地方にある〝痛みの森〟。曰く付きで、人々が忌避するその森で、静かに終わりを迎えようと心に決めた。

 それが定まると、どんな辱めにも耐えられた。不思議と心が凪いで、彼に対して従順に振る舞えるようになった。

 そのせいだろうか。イグナーツも幾分か機嫌を良くし、穏やかな態度を見せるようになった。身体を拭い、髪を梳き、着替えの際には後ろ手だった拘束を前に変えるほどに。

 そして──七日目の夜。

 シュネは、固く縛られた布を歯で裂き、逃亡を試みた。

 布には赤い塗料で描かれた奇怪な紋様。これが彼女の力を封じていたのだと、拘束された瞬間から感づいていた。そして、思った通りだった。

 力を取り戻したシュネは、己の権能を解き放ち、真夜中の牢を破り、闇の中へと逃げ出した。

***

「おまえに似た女の目撃情報は、何度か耳にしていた。だが、まさか生きていたとはな。しかも〝痛みの森〟方面から街に来ていたとは…&hel

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     身体の芯まで凍りついたような寒さに、シュネははっと意識を取り戻した。途端に感じるのは埃の臭い。 寝台の上に寝かされていた事に気づき、シュネはゆったりと身を起こした。 吐く息は真っ白だった。自らの身体を抱き締めるように身体を摩り、目の前を見て、シュネは絶句する。(…………ここは) 自分を閉じ込める部屋の前には鉄格子──立ち上がり、周囲を見ればどこまでも続く長い廊下が広がっていた。一定の間隔で、火を入れた壁掛けの燭台が設置されているが、灰色の石造りの空間には窓が無いので、余計に寒々しかった。  恐らく地下監獄。そして、この光景は既視感がある。〝忘れもしない心的外傷〟が自然と結び付き、シュネの顔は一瞬にして真っ青になった。 ……過去に後ろめたい事をした覚えはあった。けれど、なぜ今こうなったのだろう。どうして私は、こんな場所に〝連れ戻された〟のだろう。 寒さか恐れか。震えるシュネの唇からはカチカチと歯の鳴る音が絶え間無く響く。 今朝はいつも通りにレルヒェの街に降りた。買い物を終え、痛みの森へ戻ろうとしたその時──人気の無い路地で、複数の男に背後から羽交い締めにされた。 暴漢など、自分の力で一掃できる自身はあった。だが、ほんの一瞬だった。ぴりっとした痛みを感じた途端に自由を奪われ、口に布を当てられた瞬間に意識を失い──今に至る。 だが、この場所は……。シュネの脳裏には凄惨な記憶の数々が散る。  シュネが痛みの森に住んでいるのは、もう帰る場所も行く宛ても無いから。そして、〝ある人物〟から逃げ出した為であった。 農作が盛んな国境に面した辺境地とは言え、ヴィーゼ伯爵領は決して寂れた田舎ではない。レルヒェ地方の中では、人口も多く賑わいもある。だからこそ、隠居の身は街中でも自然と溶け込む事ができたのだ。(どうして……私、なんで。そんな……どうしよう)  とにかく、逃げなくてはならない。何を

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     視線を向ければ、先程の穏やかな面とは打って変わり、シュネは眉間に深い皺を寄せた厳しい顔付きでケルンを射貫いていた。「……ねぇ、ケルン。貴方、弱ったキルシュちゃんを抱いたの?」    まさに想定通りの反応だった。きっと、不浄だと、最低だと、弁えろと……仮にも偶像の使徒という立場を言われる事くらい安易にできた。  何せ彼女は聖職者の娘だ。そういった部分に厳しい意見を持っているに違いない。否、女性としての立場で咎めるのは、きっと当たり前だとケルンも分かっていた。    腕を掴むシュネの手はやけに冷たい。それだけで彼女が力を制御できない程に怒気を孕ませている事をケルンは理解できた。  きっと〝無責任な事をするな〟と言いたいのだろうと。   「……無論、潔白とは言わない。ただ、キルシュが具象を枯らして泣いていたから一晩中傍にいた。あとは、全部なりゆきだ。ただそれだけだ」    ケルンは淡々と事実を淡々と述べる。対してシュネは『そう』と冷ややかに言い放つと悩ましそうにこめかみを揉んだ。「貴方は神秘の存在。キルシュちゃんも世捨て人。だから、婚前交渉が良くないだの言う国教なんて関係ないわ。だから、なりゆきでそういう行為をしたとしても、私には一切咎める筋合いは無いの。好き合っているもの同士だもの。ただね。弱った女の子に漬け込むような事していないかは心配になるのよ。昨晩キルシュちゃん相当弱っていたでしょう?」 尤もな事だ。ケルンは目を細めて頷いた。   「合意は得ていた。でもシュネが言うのは一理ある」    ケルンが素直に言うと、シュネは深くため息をつき首を振るう。「具象の件は、私が自然物を操れるって教えたのが発端。その時に本の中に植物の命を奪い枯らす力があるって知って、こうなったのかも知れないけど……キルシュちゃんその件、その後大丈夫なの?」シュネが心配げな面輪を見せたので、ケルンはすぐに頷いた。 「大丈夫だ。落ちついたら自分で原因を解明していた。キルシュはとてつもなく賢いよ」 その答えに、シュネは瞑目し安堵したような面輪を浮かべていた。  それから仕切り直すように、一つ息をつき、シュネは再びケルンに向きあった。   「……あとね。私が何より気になるのは、貴方があまりにも冴えない顔をしているからよ。

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     何度も角度を変えて唇を食み、舌を絡めて頬や首筋を撫でる。 彼女の脚の合間に身体を割り込ませ、身を擦り寄せると小さな身体は大袈裟な程にぴくぴくと震え上がった。 そうして幾何か。甘く深い口付けから解放し、キルシュの表情を見下ろすと小さな唇から舌をちらりと出したまま。若苗色の瞳は蕩けており──どこか甘く淫靡な色香を感じる面輪に、無機物にはそぐわぬ情欲が腹の奥から湧き立った。 それと同時に込み上げるのは、切ないほどの愛おしさで……。  長い間恋し続けた運命の幼馴染み。そんな彼女は、ベッドに組み敷いた直後に〝永遠〟を言わんとした事をすぐに察した。  しかし、それは不透明だった。否、無理だと分かっていた。 もう終わるのだ。じきに終わりを迎えるのだ。 分かっていて堪らなくなり苦しくなり、思わずその唇を塞ぎ貪るような口付けを与えてしまったのである。 残酷で、最低で、酷い男としか言えないだろう。自己嫌悪もあるが、愛情を止めるのはもう無理だった。 たとえ、別れに向かう再会だとしても、愛すなという方が無理だった。「俺は幸せだ。なぁキルシュ、それは……いつか男の俺から、はっきりと言えたらいいな」 断言なんてできない。あくまで希望、そして胸の奥から溢れる切なる願いだった。 キルシュの前髪を撫でて、ケルンはやんわりと笑んだ。 ──そんなキルシュは、蕩けた面輪のままではあるが、どこか物悲しげで切ない面輪を浮かべていた事は、ケルンも分かっていた。 *** 凜と冷たく暗い空間に、ボーン……と柱時計は六つ目の鐘の音を鳴らし終えた。 朝を迎えたにも関わらず、空は夜とさして変わらぬまま。シャツを羽織りながらケルンは窓辺で外の雪景色をぼんやりと眺めていた。 (随分積もったな……)  ほぅと息をつけば、白煙が立つ。 そうして着替え終えると、ケルンは踵を返しベッドで眠るキルシュを愛おしげに見つめた。

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